『もういちど親子になりたい』

という演題のひきこもりの講演会に参加してきました。

 

話し手は、評論家の芹沢俊介氏。

 

うまくまとめれられないので、心に残った言葉を羅列したいと思います。

 

以下のとおりです。

 

 

 

 

・ 子供は自己の生誕という出来事に何一つ主体的に関与できなかったということ。

 

・ 子供は何一つ選んでない、すべて強制的に書き込まれて生まれてきた存在。

 

・ イノセンス=責任がない。それゆえ子供は自分の命の存続に責任ある誰か=受けとめ手を求める 

        

・ 受けとめ手を求め、受けとめられ欲求の充足=受けとめられ体験を得たい(受動愛)。

 

・ 受けとめられなければ、ただちに命は生きのびることはできない。

 

・ 受けとめる=親子になる

 

・ 受けとめること=肯定するということ

 

・ 産みの親であるにおいて「親子である」ことはできても、そのまま「親子になる」ことはできない。

  産みの母親が受けとめ手としての母親に移行することが、親子になるということ。

 

・ 子供は誰かと一緒のとき一人になれる。

 

・ 一緒の誰かとは、特別な誰か、絶対の信頼の対象、受けとめ手、親。

 

・ 「あなたがわたしの子どもでよかった」と子どもをまるごとそのまま受けとめるだけでよいのです。

 

・ 引きこもるという情熱。

 

・ 産む暴力。母という暴力。

 

・ ひとりになれない孤独とは、内部に受けとめ手がいない。空洞。

 

・ 「いるのにいない」産みの親はいるのに、受けとめ手としての親がいない。

 

・ ひとりぼっちの孤独との戦いだけでなく、一緒の誰かの不在という孤独とも戦わなくてはならない。

                                                    (二重の孤独)

 

 

 

 

なんだか書いていて、とても切なくなりました。

 

親子って、いったい何なのでしょう。

 

互いに、一番近い存在だけに、遠い存在なのかもしれません…。